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あきんどブログ記

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荻生録造を顕彰

 「荻生録造先生」内田務

 沼津信用金庫本店ストリートギャラリーで、代戯館まつりとして「近代眼科学の礎を築いた荻生録造博士展」が五月八日まで開かれている。
 博士は安政六年(一八五九)、幕臣福永清右衛門の三男として江戸麻布の屋敷に生まれ、後に江戸時代の有名な儒学者、荻生俎徠(おぎゅう・そらい)の一族の家督を継いだ。明治維新後、徳川家の駿河転封に伴って家族と沼津に移住し、兵学校附属小学校で学んだが、小学校の課程を修了するとドイツ語の勉学を思い立って上京。東京外国語学校で履修した。
 沼津に移住した旧幕臣は子弟の教育に力を入れ、明治元年(一八六八)に「代戯館」という学校を開設した。添地にあった長屋を校舎に充て、ござを敷き、黒板には雨戸を使うなど粗末なもので、その年の十二月に沼津兵学校附属小学校に引き継がれ、日本で最初の「小学校」となった。
 生徒は七歳以上の士族、庶民の子弟で、算術、地理、体操、乗馬、水泳、英語、フランス語を教える高度な小学校だった。
 兵学校設立時、頭取の西周(にし・あまね)は軍医養成のため、明治二年(一八六九)、城内字西条町に沼津陸軍医学所を開設。杉田玄端を陸軍医師・頭取として招いた。一方、荻生博士は明治十年(一八七七)、東大医科に入学、十七年(一八八四)に卒業とともに千葉医学校の一等教諭となり、四十三歳で千葉医学専門学校八現千葉大医学部)の校長兼病院長に就任。
 この間、三十八歳の時には日本眼科学会の創立発起人の一人として参画し、四十四歳の時には眼科学研究のため公費留学で一年間、ドイツに学び、四十七歳で東大から博士号を授与された。五十五歳で死去。
 ところで、戦後、沼津市立病院の運営を千葉大医学部が引き受けることになるが、ここには、幼少時に沼津に学んだ博士が長年在職した学校と沼津市との深いつながりを感じる。専門分野を追求する研究者であり、後進を指導する教育者でもあった博士は、本当に尊敬される人物ではなかったろうか、と今回の展示を拝見して思いをはせた。(フリーコピーライター、下香貫)
(沼朝平成21年4月29日号寄稿)



近代眼科の礎築く「荻生録造を顕彰」
 沼津で企画展 胸像や手術道具など展示
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沼津で学び、近代眼科学の礎を築いた荻生録造(一八五九~一九一四年)を顕彰する企画展(静岡新聞社・静岡放送後援)が五月八日まで沼津市大手町の沼津信用金庫本店ストリートギャラリーで開かれている。歴史を切り口に町おこしに取り組む商店主らが、録造ゆかりの手術道具や眼球模型、模写、胸像など貴重な資料を集めた。今月二十九日には記念講演会を開く。
 録造は幕臣の子息として江戸麻布で生まれ、明治維新後の一八六九年(明治二年)に十歳で沼津兵学校付属小第一期生として入学した。二年間学んだ後、東大医学部などを卒業。四十三歳で千葉医学専門学校(現千葉大医学部)校長兼病院長に就いた。日本眼科学会の創立発起人の一人。
 三十四年にわたり眼科学のほか法医学教授も兼任。千六百人以上の医師を育てた。トラホームの研究などでも知られる。
 展示資料は、沼津兵学校付属小にかかわる偉人をテーマに、市活性化に取り組む上本通り商店街のメンバーらが収集した。親族や沼津市明治史料館をはじめ千葉大の眼科学研究室、千葉眼科記念館(茂原市)などの協力を得た。
 当時の医学生が眼科学を学んだ眼球模型などのほか、非常に明快だったと伝えられる録造の講義を筆録したノートなども展示している。
 記念講演会は二十九日午後一時から沼津信金本店で。国立歴史民俗博物館総合研究大学院大学の樋口雄彦准教授が「荻生録造と沼津兵学校周辺の医師たち」を演題に講演する。入場無料。
(静新平成21年4月25日(土)朝刊)
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  1. 2009/04/29(水) 09:48:31|
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